弘前大学脳神経内科の過去・現在・未来 診療科長・教授 冨山 誠彦
まず、本教室の沿革から紹介します。松永宗雄先生が1971年に旧第三内科(現在の内分泌・代謝内科学講座)に赴任し弘前大学の「神経学」は産声をあげました。1983年に医学部附属脳卒中研究施設に神経統御部門が設置され、松永宗雄先生が教授に就任、以来神経学を志すものが少しずつ増えましたが(私もその一人です)、当時の神経内科診療は第三内科で行っていました。2006年1月に臨床講座として神経内科が独立し、東海林幹夫教授が就任しています。2019年4月に冨山誠彦が教授を拝命し、新たな歩みを始めたところです。
現在青森県には神経内科専門医は35人で、人口あたり医師数とすると全国都道府県中41位であり、青森県は脳神経内科医の過疎地そのものといえます。また専門医の年齢も上がってきています。このように書くと絶望的な状況に見えるかもしれません。しかし、このHPが公開される時点で、脳神経内科医を目指してくれた内科専攻医が7人、当科と青森県立中央病院で研修中であり、私たちの進む道にも光明が差してきた思いがします。
当科の理念は「青森県内の脳神経内科医師を継続的に増やし、脳神経内科医療を県内に普く提供するとともにその質を向上する」であり、これは私の願いでもあります。シンプルですが、言い換えれば、この基本理念を共有できればどのような考えや想いも受け入れ可能ということです。具体的には、県内の神経難病診療体制の整備や認知症診療体制の構築について取り掛かっていますが、まだ脳神経内科医療の充実へは先が長いと言わざるを得ません。
最も大切なことは、常にイノベーションを忘れないことだと思っています。常に、社会が私たちに求めているものは何かを探知し、それに対して脳神経内科医として私たちに何ができるのかを考え、意見を出し合い、議論し、選択し、行動し、問題を一つずつ解決していくことこそ、老若問わずこの地この時に働く医師の使命ではないでしょうか。臨床医として成熟することはもちろんのこと、自分たちの結集した力を目に見える形で社会に還元できてこそ、脳神経内科という診療科が認められこの地に根付くと思っています。
自分のことを少し書かせていただきます。学生さんに「先生はなぜ脳神経内科医になったのですか?」とよく聞かれます。申し訳ないのですが「使命感に燃えて」なんてことはありませんでした。「不思議」だったからだと思います。失語や不随意運動を起こす脳がただ不思議だったし、もっと知りたいと思いました。だから神経学を生業にしたのだと思っています。
この好奇心が私の原点であり、かつ未だに私をかきたててくれます。神経学の診断は謎解きに例えられます。問診からの情報、そして見て、触れて、叩いて、時には串でつついて、患者さんに動作をしてもらい、自分の五感(時には第六感も)を頼りに、患者さんが与えてくれるヒントを一つ一つ自分で集めてなぞなぞを解いていきます。患者さんはまさに「私の病気は何?」というスフィンクス。私の武器は、ハンマー、音叉とおでんの竹串だけ。全く見当がつかなかったり、画像(主にMRI)に負けたり、がっくりすることもありますが、これほど自分が生き生きとしている時間はないように思います。それで診断がつき、適切な治療ができて患者さんが良くなろうものなら、心の中で盛大にガッツポーズ。ただ治療法がない病気のこともあります。
「神経内科は治らない病気ばかりだから、そんな科でなくてうちにおいでよ」と学生時代に言われました。「ということは、病気の治療法を発見できる可能性の高い科でもあるわけですね」と言い返していた生意気な自分を思い出します。後日、この道がとてつもなく険しいことを私は身を以て知りました。ただし、治療法のない病気の患者さんにも脳神経内科医でなければできないことがたくさんあることを今なら知っています。「なぜ脳神経内科を選んだのですか?」とは聞かれるよりは、「神経内科を選んでよかったですか?」と聞いて欲しいなと思っています。